放課後の音楽室は傾き始めた太陽の日差しが燦々と降り注いで、室内をセピア色に染めていた。
春花《はるか》は耳を研ぎ澄ます。隣に座る静《せい》と目配せをし呼吸を合わせ、指先に神経を集中させた。
静のすうっという呼吸音を合図に指を動かす。ポロンポロンと柔らかいピアノの音色が教室に響き渡り、心地よい空間が生み出された。
山名春花《やまなはるか》と桐谷静《きりたにせい》は高校三年生。一年のときから音楽部に所属している。二人ともピアノが得意で、合唱コンクールのときはどちらがピアノを担当するかでよく議論になった。
「桐谷くんのピアノはすごいから」
たいていは春花がそう結論付けて身を引いていたのだが、いつからか静も、
「今回は山名の方が上手いと思う」
と春花のピアノの腕を認めるようになっていた。
もともと合唱に力を入れていた音楽部だったが、二人のピアノの実力を認めていた顧問は音楽部とは別に、連弾でコンクールに出場してみないかと提案した。
ピアノコンクールは予選、本選、コンサートと一年がかりのイベントだ。当然予選を突破しなければ次へ進めないのだが、春花と静は毎日放課後に音楽室で練習に励んだ。
高校三年生ともなると基本的に部活は夏の大会を最後に引退となる。そして受験モードへ移行していくわけなのだが、順調に予選を突破した二人は夏を過ぎても音楽室に入り浸っていた。
「桐谷くんは進路どうするの? やっぱり音大目指してる?」「うん。俺の夢はピアニストだから」「ピアニストかぁ。なんかすっごくしっくりくるね」「山名は?」「私はまだ迷ってる」「山名も目指せよ、ピアニスト。一緒に音大行こうぜ」「桐谷くんとはレベルが違うってば」「なんで? 俺、山名のピアノすごく好きだけど」なんでもなくさらっと放たれた静の言葉は、春花の心に深く刻まれる。静は子供の頃からピアノ一筋で、通っているピアノ教室で開催されるコンテストでたびたび賞を取っているほど、まわりからも将来を期待されている逸材だ。一方の春花も子供の頃からピアノが大好きでずっとピアノを習っているが、有名なピアノ教室ではないためコンテストはもちろんのこと発表会すらない、本当に趣味程度のピアノの腕前だった。「俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ」「すごい! いつか桐谷くんのコンサートに行きたい」「まずは連弾で優勝だな」「うん!」毎日音楽室でピアノを弾き、休憩中はたわいもないことをおしゃべりする。春花はこの時間が何よりも癒されるものだった。いつも帰る時間になると寂しくなってしまう。ずっと静とピアノを弾けたらどんなに幸せだろうか。将来を想像しては頬を緩ませた。
春花も音大を志望し、二人のピアノは益々熱が入った。受験は一月。連弾のコンクールも一月というハードスケジュールだったが、お互い何も苦ではなかった。むしろ二人でいられる時間が幸せすぎて、勉強もピアノもどんどん向上していく。だが、ある日春花が家に帰ると、いつもと様子が違っていて不思議に思う。「……ただいま」キッチンにいるであろう母に向かって声をかけると、「おかえり」と明るい声が返ってきて春花はドキッとする。春花の両親はずいぶん前から不仲で、家はいつも雰囲気が悪かった。居心地の悪さから春花は家に帰るとすぐに自室へこもって過ごしていたのだが、なぜか今日は母の機嫌がいい。「春花、話があるのよ」「あ、うん。カバン置いてくる」ドキドキと脈打つ鼓動はやがて胸騒ぎへと変わっていく。なんとなく覚悟を持って母の元に行くと、食卓にはケーキが用意されており、母の口からは離婚したことを告げられた。「春花にはずっと辛い想いをさせてごめんね」そういう母の顔はずいぶんと晴れ晴れしており、春花の知らないところでいろいろな苦労があったのだろうと推測された。「それでね、この家も売ることになったのよ。近くのアパートを借りるから、学校に通いにくくなることはないと思うけど」「うん、わかった」「春花、ピアノなんだけど……」「わかってる。持っていけないんだよね?」「ごめんね」「大丈夫。ピアノは学校で弾けばいいし、貯金してあるお年玉でキーボードでも買うよ。それよりよかったね、離婚できて」「春花、ありがとう」「で、お祝いのケーキってこと?」「……お祝いとお詫びを兼ねて。春花には悲しい想いをさせてしまうわ」「別に悲しくなんてないよ。お父さんとはもうずいぶんしゃべってないし、お母さんが笑っててくれる方が私は幸せ」「春花……」母はグスグスと鼻をすすり、春花は何でもないようにケーキを平らげた。
自室に戻りベッドへ突っ伏す。両親が不仲でいつだって雰囲気が悪く居心地の悪い家。離婚するなら早くすればいいのにと、春花は密かにずっと思っていた。だから心の準備はできていたはずだった。父とは会話のない生活がずっと続いている。別に嫌っているわけではないが、離婚したら母について行くのだろう。引っ越すのならピアノは持っていけないかもしれない。などと大方の予想はできていたのだ。「はぁー」春花のため息は誰に聞かれることもなく、虚しく抜けていく。いくら予想していたとはいえ、受験もコンテストも控えているこの時季に生活が変わるのだ。少なからずともダメージはある。「音大、行けないんだろうな……」大学はお金がかかる。それくらい春花は理解している。自分の将来が変わってしまうことを憂いじわじわと押し寄せる感情に泣き崩れた。「……ううっ……桐谷くん」何より静と一緒に音大に行けないことの事実が、春花の胸をぎゅうぎゅうと締めつける。春花は静とピアノを弾くことがとても幸せだ。あの時間は本当にかけがえのないもので、大切にしていきたい空間である。それはこれからもずっと、静と共にありたいと願うことでもある。「桐谷くんと離れ離れかぁ」春花の気持ちは静は知らない。伝えて壊れるくらいなら、伝えずにずっとこうして仲良くピアノを弾いていたい。だから同じ音大を目指していたというのに……。
◇静の呼吸音を合図にポロロンと鍵盤を叩く。お互いの呼吸を合わせて流れるように指を動かす。演奏中、普段は触れない相手の手を掠めるということが今日は何度もあった。「山名、今日どうかした?」「ごめん、なんか調子悪いみたい。練習不足かも」俯いて手を握る春花に、静は怪訝な顔をする。もうすぐコンクールだというのに、こんな初歩的なミスを何度も犯す春花はどこかおかしい。「なんか、あった? 今日、元気ない」音楽室に入ってきたときから感じていた春花の違和感。気のせいかと思っていた静だったが、この様子ではやはり気のせいではないらしい。「……うん」口数少なく春花は小さく頷くと、やがて深いため息とは裏腹に、静に笑顔を見せた。「桐谷くんごめん。私、音大受験できなくなっちゃってさ」「えっ?」「両親が離婚したんだ。仕方ないよね、音大ってすごく高いんだもん。お母さんに負担かけたくないし。だから保育の専門学校を受験することにしたの。保育士ってピアノ使うじゃない? だからいいかなーって。まあなんていうか、ピアノ触れるだけ嬉しいっていうか……」捲し立てるように早口で言う春花はずっとニコニコしていてそれが逆に静の胸を苦しくする。「桐谷くんは音大頑張ってよね! さ、もう一回練習しよっ!」春花は明るく振る舞いながら鍵盤に手を置く。いつでも準備万端とばかりにその時を待つが、静は一向に始めようとしない。春花の手は静によって鍵盤から下ろされた。掴まれた手首は思いのほか力が強く、春花は驚いて静を見る。「無理すんな。本当は行きたかったんだろ、音大」「……そんなことないよ」「俺の前で強がったりするな!」「桐谷くん……」「そんな泣きそうな顔して何言ってるんだ。泣けよ。泣けばいいだろ」「……ううっ」体の奥の方から溢れてくる気持ちはどんどんと膨れ上がって、やがて春花の視界をぼかす。
「本当は、桐谷くんと一緒に音大に行きたかった……」グスグスと泣きながら自分の気持ちを吐露すると余計に涙が溢れ出た。しゃくり上げながら泣きじゃくる春花を、静は抱きしめたい衝動に駆られた。けれど静にそんな勇気はなく、ただ隣で静かに見守ることしかできなかった。ようやく春花が落ち着くと、静はポツリと呟く。「泣いてちょっとはすっきりした?」「……うん」「俺が山名の分まで音大で頑張ってくる。ピアニストになってみせる」「……うん」「だから山名もピアノ辞めるな。山名のピアノは人を優しい気持ちにさせる。俺は山名のピアノが好きだ」静の言葉がぶわっと春花の体を駆け抜けていく。まるで告白でもされたかのように気持ちが高揚し、先程まで落ち込んでいた気持ちが嘘のように晴れていくような気がした。「桐谷くん、もう一度トロイメライ弾かせて」「ああ」二人は並んで座り直し背筋を正す。 静の呼吸音を合図に柔らかく鍵盤を叩いた。今度はお互いの手に触れることなく綺麗な旋律を生み出していく。もう春花に迷いはない。 静も決意を新たにする。トロイメライを弾きながら、二人はそれぞれの未来を夢描いた。これから先、別々の道を歩もうとも、ピアノは続けていく。それが道標となっていくのだろう。この日の出来事は春花にとって、キラキラしていて宝石のように心の中でずっと輝く忘れられない素敵な思い出となったのだった。
通勤途中の電車の中吊り広告や楽器店に張り出された大きなポスターを見て、春花はほうっと感嘆のため息をついた。ピアノの鍵盤に向かう真剣な眼差し。すっと整った鼻筋に、薄く弧を描く唇。そして長く綺麗な指。――ピアニスト桐谷静――その名前を見るだけでドキッとする。こうして有名になるにつれて、いよいよ彼は手の届かない人になったんだと実感する。同級生なのは本当は嘘なんじゃないかとさえ思えてしまう。音楽大学在学中にコンクールで賞を取りどんどんと有名になっていった静。昨今の芸能ニュースでは、フルート奏者と熱愛報道まで出ているくらいに世間を賑わせているもはや有名人だ。その活躍を耳にするたび春花は誇らしい気持ちでいっぱいになった。と同時に、自分の人生とは雲泥の差であることへの、憧れと嫉妬心が少なからずもわく。高校生のときは放課後毎日一緒に過ごしたのに、と。その思い出すら幻だったのではないかと思うほど、今の静は輝いていて別世界の住人に見えた。専門学校で保育士の資格を取った春花だったが、結局ピアニストになることが諦めきれず楽器店に就職し、そこでピアノの講師も兼任することになった。ピアニストとは程遠い仕事だが、充実はしている。結局本当にピアニストになりたかったのかどうか、今の春花にはわからない。ただひとつ言えることは、静に少しでも近づきたかったということだ。
店舗の運営とピアノ講師はシフト制によって勤務時間が決められている。午前中から昼過ぎまで楽器店の店員として働いた春花は、午後は併設されているピアノ教室の講師を勤める。ピアノのレッスンは主に夕方からが主で、幼児から年配まで年齢層は様々だ。「はるかせんせい、こんにちは」「こんにちは、ももちゃん。お家で練習してきたかな?」「もも、できるようになったよ。みててね」保育園児のももは小さな手を鍵盤に乗せ、ぎこちない指でドレミと音を出す。「うん、上手になってる」「やったぁー!」ももの微笑ましい姿は春花を初心に返す。今ではスラスラと弾けるようになったピアノも、かつては春花だってももと同じスタートラインだったのだ。「ピアノ弾きたいなぁ」「せんせい、なあに?」「ううん、ももちゃん、今日も頑張ってピアノ弾こうね」「うん!」春花はその後5つのレッスンこなし、ようやく本日の勤務を終えたのだった。「は~疲れたぁ」思わず声が出たことに春花は自分自身苦笑いした。今日は午前中から勤務があり、レッスンもたくさん入っていたハードな一日だった。早く帰ってゆっくりお風呂にでも浸かりたい。そんなことを考えながら帰宅していると、突然携帯電話が鳴った。表示名を見て、春花は無意識に眉をひそめる。そしてため息が漏れた。
「……もしもし?」『春花、仕事終わった?』「うん、今帰るところ」『お疲れ様。今日ちょっと遅くない?』「シフト勤務だからこんなものよ」『いや、絶対遅いよ。こんな時間まで何してたんだ?』「仕事だってば」『待ちくたびれたんだけど』「……何か用事?」『彼氏が会いに来てやったのにその言い方はなんだ?』「……家にいるの?」『そうだよ。なんか悪いか?』「……ううん、すぐ帰る」携帯電話をカバンに押し込むと、春花は殊更大きなため息をついた。去年合コンで知り合った高志は大手企業勤めで寮暮らしをしている。優しくて思い遣りのある男性で印象がよく、高志からのアプローチやまわりから持て囃されて付き合い始めた。だがよかったのは最初のうちだけだった。日を追うごとに高志からの束縛が強くなっていったのだ。――どこへ行くんだ ――帰りが遅い ――俺以外の連絡先は消せ言われるたび春花は不快な気持ちになり、精神はゴリゴリと削られていく。そうして溜まった不満を爆発させれば大喧嘩に発展し罵られ、春花は泣いてしまう。それなのに結局最後は高志が泣いて謝るというパターンがここ最近の二人の付き合いだった。――春花が好きだから ――ずっと一緒にいたい ――春花がいないと俺はダメだそう言われてすんなり受け入れるほど春花も子供ではない。春花自身、高志がモラハラなのではないかと考えたりもする。けれど泣いてすがってくる高志を簡単に蔑ろにするほど残酷にはなれないでいた。高志を突き放す勇気もなく、なんだかんだ許してしまう春花は甘いといえよう。(でも今日こそ別れを告げてやる。今日こそは……)
「以前、店の前で人が刺される事件があったのはご存じですよね」「ええ、物騒ですよねぇ」「ピアニスト桐谷静の恋人のことは知っていますか?」「ああ、話題になっていますよね、三神メイサでしたっけ?」「三神メイサとは別に恋人がいることはご存じで?」「えっ! 二股ってことですか! やだー」「この店には桐谷静のサインがたくさんありますね。以前彼が来たらしいじゃないですか」「ええ、そうですね、以前来ていただいたんですよ」「どういうツテで?」「それは企業秘密ですよ」「桐谷静の恋人がこの店で働いているから?」「んもー、記者さんったら誘導尋問がお上手だこと。ここだけの話、実は私が大ファンなので知り合いに頼み込んでもらったんですよ。あ、これ他の店には秘密ですからね。絶対ですよ。あっ! もしかして桐谷静の二股の相手って私なのかしら? だとしたら光栄だわぁ」葉月の明るい声と記者の愛想笑いはその後しばらく続いたが、やがて埒が明かなくなったのか、記者の方が根負けて「今日はこのくらいで……」などと言って帰っていった。「あー、しつこい男だった」ため息とともに仕事に戻った葉月は、高くしていた声のトーンを落とす。「店長、すみません。私のせいで……」「社員を守るのも上の仕事よ。気にしないで。それより桐谷静が二股してるとか、その相手が私だとか、嘘言っちゃったわ。ごめんね」「いえ、いいんです。ありがとうございます」葉月の温かさが嬉しくて春花は目頭をじんわりさせた。本当に、良い職場で働いている。自分の蒔いた種なのにこんなにも守ってもらって贅沢ではないだろうか。ありがたいと同時に申し訳なさが込み上げてきて、春花は胸が押しつぶされそうになった。
何もかも順調にいっていると思っていたある日のこと。「すみません」レジで作業をしていた春花は声をかけられ顔を上げた。「はい、いらっしゃいませ」「以前、店の前で人が刺される事件がありましたよね。そのことについて少しお伺いしたいのですが」「えっと……」戸惑う春花に名刺が差し出される。 ぱっと目を走らせると、有名な雑誌社の名前が印刷されていた。「桐谷静の恋人と元彼がトラブルになったことを調べています」「えっ……あの……」ドキンと心臓が嫌な音を立てる。 この記者の目的は何だろうか。ドキンドキンと大きな不安に押しつぶされそうになり、言葉を飲み込む。 春花が何も言えないでいると、様子に気づいた葉月が横からすっと割り込んだ。「お客様、そういったご用件は店長である私がお受けいたしますので、従業員に聞き込みするのはやめて頂けますか? うちも商売なので、他のお客様に迷惑になる行為はやめていただきたいんですよぉ」「ああ、これは失礼しました。では店長さんにお話を伺っても?」「ええ、どうぞ。ではこちらに」葉月はスムーズに人気のないレッスン室の方へ誘導する。ドキドキと動悸が激しくなる春花は、一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。葉月と雑誌の記者の話が気になり、こっそりと聞き耳を立てた。
静は単独公演のみならず、三神メイサとのデュオでも大きな実績を上げた。国際コンクールにおいて優勝し、世界の舞台で通用する演奏家として名を馳せたのだ。静とメイサ、二人の偉業は大きく、連日ニュースが飛び交う。『静とは初めて演奏したときから運命を感じていました。これからも長い付き合いになると思います』カメラ目線で自信満々にコメントするメイサに、数々のフラッシュが飛び交う。『桐谷さんも一言コメントをお願いします』『そうですね……。このように受賞できたこと、光栄に思います』二人が微笑み合う姿は多くのメディアに取り上げられ、SNS上では「お似合いの二人」とまで囃し立てられていた。そんなものを目にしてしまった春花はドキンと心臓が変に脈打つ。静とメイサがそんな関係ではないことはわかっているし、静からもいつだって「愛している」と連絡が来る。もちろんその言葉を信じているのだが、さすがにこれだけ話題になると精神的に響くものがあった。「静、おめでとう! ニュースで見たよ!」『ありがとう。春花に一番に伝えたかったけど、メディアに先を越されたな』「それは仕方ないよ。今や日本を代表するピアニストだね」『まだまだこれからだけどね。でも一歩踏み出せたかな』「これからどんどん有名になるんだろうね。なんだか静が遠く感じられるなぁ」『俺はいつだって春花の元に飛んでいくよ』「そういう意味じゃなくて、雲の上の人ってことだよ。本当に、おめでとう。店長なんて大盛り上がりでCD平積みしてたよ」『日本に帰ったらお礼しに行かないとね。春花ごめん、今から祝賀会があるんだ。また連絡するから』「うん、わかった」『春花』「うん?」『愛してる』「私も、愛してるよ」電話越しの静はいつも通り優しく穏やかで、モヤモヤしていた春花の心もすうっと晴れていく。声を聞くだけで安心できるなんて、単純極まりない。そんな自分に春花はクスクスと笑った。
静は海外へ、春花も職場復帰し、いつも通りの日常が始まった。寂しさや物足りなさは密な連絡を取ることで回避され、お互い順調なスタートを切っていた。「山名さん、ニュース見たわよ! さすが桐谷静!」「はい、ありがとうございます!」二ヶ月が過ぎた頃すぐに大成功をおさめたニュースが飛び込んできて、恋人の活躍に春花は誇らしい気持ちになった。店に静が来訪してからというもの、社員たちの桐谷静推しも増している。やはり静が海外に行くことは正しかったのだと、証明しているようだった。「そうそう、山名さん。新規の生徒さんが入りそうなんだけど、受け持ってもらえない?」「すみません、ありがたいお話ではあるんですけど……」「まだ手首に違和感があるの?」春花が無意識に押さえた左手首を見て、葉月は心配そうに尋ねる。「そう……ですね。申し訳ないです」「ううん、いいのよ」「はい、ありがとうございます」春花は申し訳なく眉を下げた。捻挫した左手首はもうすっかり治っている。痛むこともなければ何かに不自由することもない。元通りの状態だというのに、ピアノを弾くときだけほのかに違和感を感じていた。「はぁー」無意識に出るため息は、春花の心をモヤモヤさせる。日々の生活に不満はないのに、なぜこんなにもやるせない気持ちになるのか。「静、頑張ってるなぁ」遠く離れた恋人を想いながら、春花はレッスン室に入っていった。
「私は十分幸せだよ。それより私のせいで静がピアノを弾けない方が嫌だよ」「ピアノなら国内でも弾けるよ。それに俺が海外公演に行ったら春花を守ることができなくなる」「大丈夫だよ。高志は逮捕されたし、私だってそんなに弱くないのよ」「……俺に海外に行けって言ってるの?」まるで運命のように再会してこうして恋人にもなれた。静にはたくさん助けてもらった。今度は春花が静を応援したい。好きなピアノを好きなだけ弾いていてほしい。「私は夢を追いかけている静が好きだよ。私のせいで静が小さな世界にいるのは嫌なの。だから遠慮なく行ってきて。これはチャンスなんでしょう?」春花の口からペラペラと出てくる言葉は嘘偽りない。静にはもっと自由に羽ばたいてほしいと願っているからだ。そして春花自身も、前に進みたいと思っている。静や葉月に守ってもらってばかりではなく、自分の力で未来に向かって進んでいきたい。そう心から思えるようになったのは、やはり静のおかげなのだ。「ねえ、春花の夢はなに?」「うーん、たくさんの人にピアノの魅力を伝えること、かな。静の夢は?」「……ピアノで世界中の人を魅了すること」「だよね。行きたいんでしょう? 行ってきなよ。やらずに後悔しないで。私も静が世界に羽ばたく姿、見たいな」「春花、一緒に……」「一緒にはいかないよ。だって私にはたくさんの生徒さんがいるんだから」ニッコリ笑う春花が眩しくて、静の方が胸が苦しくなる。思わず彼女を引き寄せてかたく抱きしめた。夢と現実は相反する。 手の届く温もりを手放すのは勇気がいるし、それと同様に、抱いてきた夢を諦めるのも勇気がいる。どちらが正しいかなんて誰もわからない。お互いの見据える先は果たして同じ方向を向いているのだろうか。二人が決めた道は未知の世界だった。
◇ 「春花、どうした?」リハビリがてら家でピアノを弾いていた春花だったが、曲の途中で手が止まり、すぐそばで聴いていた静が声をかける。「ううん。何でもないよ」フルフルと首を横に振るが、捻った左手首が思うように動かせず先ほどから納得のいかない演奏に気持ちが沈んでくる。「少しずつだよ、春花」察して静は春花の左手首を優しく撫でる。その心遣いが優しすぎて春花は胸が苦しくなった。いつだって静は春花を優先する。ピアノのリハビリもずっと付き合ってくれている。静だって次の公演に向けて練習をしなくてはいけないはずなのに、「俺はいいから」と身を引くのだ。そんな優しさが、かつての自分を見ているようで苦しい。そんなに気を遣わなくていいのに。 もっとわがままになってくれていいのに。「ねえ静、海外公演を断ったって本当?」「春花、その話どこから……?」「やっぱりそうなの?」「いいんだよ、それは。別にピアノなんてどこにいても弾けるだろう?」「でも夢なんでしょう? 世界中の人を魅了するのが静の夢」核心を突くような言葉に静は息を飲んだ。だがすぐに首を小さく横に振る。「俺の今の夢は春花を幸せにすることだよ」優しさが一層春花の胸を締めつける。それはそれとして静の本心なのだろうと思う。だがその言葉の裏にはやはり自分の感情を押し込めていると思わざるを得ない。静は誰よりも努力家で誰よりもピアノが好きで、もっと世界に羽ばたきたいと願っている。ずっと近くで見てきた春花だからこそ、わかるのだ。
三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。 ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。 自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。もし静が海外にいったらどうなるのだろう。 もっともっと有名になったらどうなるのだろう。平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。でも……。 だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。
静から楽屋で待っててと言われていた春花は、演奏終了後に関係者として中に入った。静の名前が貼られた楽屋を前にノックをしようとしたとき、「ねえ」と声をかけられ振り向く。「あなた、静の彼女よね?」ワインカラーのドレスに身を包んだ三神メイサが、春花を値踏みするかのように立ちはだかった。「あの……」「あなたに話があるのよ。ちょっと来て」「えっ、あのっ!」有無を言わさず、メイサは春花を引っ張って自分の楽屋に連れ込んだ。パタンと閉められた扉はメイサの背にあって、簡単に逃げることができない。ワインカラーに負けないほどに目鼻立ちがくっきりした美人タイプのメイサは、腕組みをして春花を睨むように見下す。「あなた、静の足を引っ張らないでちょうだい」「……それはどういうことでしょうか?」「本当、能天気ね。静はこれから私と海外公演で名を馳せていくハズだったのよ。それなのに急に出てきたあなたにその夢を壊された」「海外公演?」「何? もしかして聞いてないの? 静はこれから海外でも実績を上げていく予定だったのよ。でもあなたがケガをして側にいたいから諦めるんですって」「え……」「本当に知らなかったんだ? 静はこれからもっともっと有名になる予定だったのよ。静には狭い日本より広い海外が似合ってる。海外からのオファーだってたくさんきているのよ。あなたもバカじゃないでしょう? 静を説得して。今ならまだ間に合うわ。身を引いてちょうだい」「そんな……」春花は押し黙る。メイサの話が本当かどうかわからない。静からは何も聞いていないからだ。だが静の実力なら海外からのオファーだってあるに違いないし、そもそも静のピアニストとして初の公演は海外だった。(私がいるから? 静は我慢してる?)
◇久しぶりに静のコンサートが開催されるということで、春花は招待者として会場に足を運んだ。今回はピアノとバイオリン、フルートのアンサンブルだ。自宅でピアノの練習をしている静の姿を何度も見てきた春花だったが、バイオリンとフルートが加わるとどんな音色になるのだろうとワクワクする。やがて会場の照明が落とされ、奏者達が舞台に姿を現した。静は黒のタキシード姿でいつも通り存在感を放ち輝いている。恋人の立ち姿が立派だと、なんだか春花が誇らしく嬉しい気持ちになった。(やっぱり静はかっこいいな。……あっ!)思わず息を飲んだ春花の視線の先には、フルート奏者である三神メイサがワインカラーのドレスを翻し、エキゾチックな雰囲気でひときわ異彩を放っていた。(あの人、前に静と噂になった人だ……)思わず彼女を凝視してしまう。今日のコンサートがアンサンブルで、フルート奏者が三神メイサだと静から聞いていた。それに対して春花は何とも思わなかったのに、いざ彼女を目の前にすると少しばかり心が落ち着かなくなる。彼女とはなんでもないと聞いているし、静の恋人は自分で愛されているという実感もあるのに、それでも気になってしまう心の弱さに自然とため息が出てしまう。(存在感がすごいんだよね……)メイサの自信に満ち溢れた表情からは、フルートにかける情熱さえも読み取れるようだ。ピアノ、バイオリン、フルートの綺麗な旋律はあっという間に観客の心を掴んでいき、春花の雑念も消え去っていった。