放課後の音楽室は傾き始めた太陽の日差しが燦々と降り注いで、室内をセピア色に染めていた。
春花《はるか》は耳を研ぎ澄ます。隣に座る静《せい》と目配せをし呼吸を合わせ、指先に神経を集中させた。
静のすうっという呼吸音を合図に指を動かす。ポロンポロンと柔らかいピアノの音色が教室に響き渡り、心地よい空間が生み出された。
山名春花《やまなはるか》と桐谷静《きりたにせい》は高校三年生。一年のときから音楽部に所属している。二人ともピアノが得意で、合唱コンクールのときはどちらがピアノを担当するかでよく議論になった。
「桐谷くんのピアノはすごいから」
たいていは春花がそう結論付けて身を引いていたのだが、いつからか静も、
「今回は山名の方が上手いと思う」
と春花のピアノの腕を認めるようになっていた。
もともと合唱に力を入れていた音楽部だったが、二人のピアノの実力を認めていた顧問は音楽部とは別に、連弾でコンクールに出場してみないかと提案した。
ピアノコンクールは予選、本選、コンサートと一年がかりのイベントだ。当然予選を突破しなければ次へ進めないのだが、春花と静は毎日放課後に音楽室で練習に励んだ。
高校三年生ともなると基本的に部活は夏の大会を最後に引退となる。そして受験モードへ移行していくわけなのだが、順調に予選を突破した二人は夏を過ぎても音楽室に入り浸っていた。
「桐谷くんは進路どうするの? やっぱり音大目指してる?」「うん。俺の夢はピアニストだから」「ピアニストかぁ。なんかすっごくしっくりくるね」「山名は?」「私はまだ迷ってる」「山名も目指せよ、ピアニスト。一緒に音大行こうぜ」「桐谷くんとはレベルが違うってば」「なんで? 俺、山名のピアノすごく好きだけど」なんでもなくさらっと放たれた静の言葉は、春花の心に深く刻まれる。静は子供の頃からピアノ一筋で、通っているピアノ教室で開催されるコンテストでたびたび賞を取っているほど、まわりからも将来を期待されている逸材だ。一方の春花も子供の頃からピアノが大好きでずっとピアノを習っているが、有名なピアノ教室ではないためコンテストはもちろんのこと発表会すらない、本当に趣味程度のピアノの腕前だった。「俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ」「すごい! いつか桐谷くんのコンサートに行きたい」「まずは連弾で優勝だな」「うん!」毎日音楽室でピアノを弾き、休憩中はたわいもないことをおしゃべりする。春花はこの時間が何よりも癒されるものだった。いつも帰る時間になると寂しくなってしまう。ずっと静とピアノを弾けたらどんなに幸せだろうか。将来を想像しては頬を緩ませた。
春花も音大を志望し、二人のピアノは益々熱が入った。受験は一月。連弾のコンクールも一月というハードスケジュールだったが、お互い何も苦ではなかった。むしろ二人でいられる時間が幸せすぎて、勉強もピアノもどんどん向上していく。だが、ある日春花が家に帰ると、いつもと様子が違っていて不思議に思う。「……ただいま」キッチンにいるであろう母に向かって声をかけると、「おかえり」と明るい声が返ってきて春花はドキッとする。春花の両親はずいぶん前から不仲で、家はいつも雰囲気が悪かった。居心地の悪さから春花は家に帰るとすぐに自室へこもって過ごしていたのだが、なぜか今日は母の機嫌がいい。「春花、話があるのよ」「あ、うん。カバン置いてくる」ドキドキと脈打つ鼓動はやがて胸騒ぎへと変わっていく。なんとなく覚悟を持って母の元に行くと、食卓にはケーキが用意されており、母の口からは離婚したことを告げられた。「春花にはずっと辛い想いをさせてごめんね」そういう母の顔はずいぶんと晴れ晴れしており、春花の知らないところでいろいろな苦労があったのだろうと推測された。「それでね、この家も売ることになったのよ。近くのアパートを借りるから、学校に通いにくくなることはないと思うけど」「うん、わかった」「春花、ピアノなんだけど……」「わかってる。持っていけないんだよね?」「ごめんね」「大丈夫。ピアノは学校で弾けばいいし、貯金してあるお年玉でキーボードでも買うよ。それよりよかったね、離婚できて」「春花、ありがとう」「で、お祝いのケーキってこと?」「……お祝いとお詫びを兼ねて。春花には悲しい想いをさせてしまうわ」「別に悲しくなんてないよ。お父さんとはもうずいぶんしゃべってないし、お母さんが笑っててくれる方が私は幸せ」「春花……」母はグスグスと鼻をすすり、春花は何でもないようにケーキを平らげた。
自室に戻りベッドへ突っ伏す。両親が不仲でいつだって雰囲気が悪く居心地の悪い家。離婚するなら早くすればいいのにと、春花は密かにずっと思っていた。だから心の準備はできていたはずだった。父とは会話のない生活がずっと続いている。別に嫌っているわけではないが、離婚したら母について行くのだろう。引っ越すのならピアノは持っていけないかもしれない。などと大方の予想はできていたのだ。「はぁー」春花のため息は誰に聞かれることもなく、虚しく抜けていく。いくら予想していたとはいえ、受験もコンテストも控えているこの時季に生活が変わるのだ。少なからずともダメージはある。「音大、行けないんだろうな……」大学はお金がかかる。それくらい春花は理解している。自分の将来が変わってしまうことを憂いじわじわと押し寄せる感情に泣き崩れた。「……ううっ……桐谷くん」何より静と一緒に音大に行けないことの事実が、春花の胸をぎゅうぎゅうと締めつける。春花は静とピアノを弾くことがとても幸せだ。あの時間は本当にかけがえのないもので、大切にしていきたい空間である。それはこれからもずっと、静と共にありたいと願うことでもある。「桐谷くんと離れ離れかぁ」春花の気持ちは静は知らない。伝えて壊れるくらいなら、伝えずにずっとこうして仲良くピアノを弾いていたい。だから同じ音大を目指していたというのに……。
◇静の呼吸音を合図にポロロンと鍵盤を叩く。お互いの呼吸を合わせて流れるように指を動かす。演奏中、普段は触れない相手の手を掠めるということが今日は何度もあった。「山名、今日どうかした?」「ごめん、なんか調子悪いみたい。練習不足かも」俯いて手を握る春花に、静は怪訝な顔をする。もうすぐコンクールだというのに、こんな初歩的なミスを何度も犯す春花はどこかおかしい。「なんか、あった? 今日、元気ない」音楽室に入ってきたときから感じていた春花の違和感。気のせいかと思っていた静だったが、この様子ではやはり気のせいではないらしい。「……うん」口数少なく春花は小さく頷くと、やがて深いため息とは裏腹に、静に笑顔を見せた。「桐谷くんごめん。私、音大受験できなくなっちゃってさ」「えっ?」「両親が離婚したんだ。仕方ないよね、音大ってすごく高いんだもん。お母さんに負担かけたくないし。だから保育の専門学校を受験することにしたの。保育士ってピアノ使うじゃない? だからいいかなーって。まあなんていうか、ピアノ触れるだけ嬉しいっていうか……」捲し立てるように早口で言う春花はずっとニコニコしていてそれが逆に静の胸を苦しくする。「桐谷くんは音大頑張ってよね! さ、もう一回練習しよっ!」春花は明るく振る舞いながら鍵盤に手を置く。いつでも準備万端とばかりにその時を待つが、静は一向に始めようとしない。春花の手は静によって鍵盤から下ろされた。掴まれた手首は思いのほか力が強く、春花は驚いて静を見る。「無理すんな。本当は行きたかったんだろ、音大」「……そんなことないよ」「俺の前で強がったりするな!」「桐谷くん……」「そんな泣きそうな顔して何言ってるんだ。泣けよ。泣けばいいだろ」「……ううっ」体の奥の方から溢れてくる気持ちはどんどんと膨れ上がって、やがて春花の視界をぼかす。
「本当は、桐谷くんと一緒に音大に行きたかった……」グスグスと泣きながら自分の気持ちを吐露すると余計に涙が溢れ出た。しゃくり上げながら泣きじゃくる春花を、静は抱きしめたい衝動に駆られた。けれど静にそんな勇気はなく、ただ隣で静かに見守ることしかできなかった。ようやく春花が落ち着くと、静はポツリと呟く。「泣いてちょっとはすっきりした?」「……うん」「俺が山名の分まで音大で頑張ってくる。ピアニストになってみせる」「……うん」「だから山名もピアノ辞めるな。山名のピアノは人を優しい気持ちにさせる。俺は山名のピアノが好きだ」静の言葉がぶわっと春花の体を駆け抜けていく。まるで告白でもされたかのように気持ちが高揚し、先程まで落ち込んでいた気持ちが嘘のように晴れていくような気がした。「桐谷くん、もう一度トロイメライ弾かせて」「ああ」二人は並んで座り直し背筋を正す。 静の呼吸音を合図に柔らかく鍵盤を叩いた。今度はお互いの手に触れることなく綺麗な旋律を生み出していく。もう春花に迷いはない。 静も決意を新たにする。トロイメライを弾きながら、二人はそれぞれの未来を夢描いた。これから先、別々の道を歩もうとも、ピアノは続けていく。それが道標となっていくのだろう。この日の出来事は春花にとって、キラキラしていて宝石のように心の中でずっと輝く忘れられない素敵な思い出となったのだった。
通勤途中の電車の中吊り広告や楽器店に張り出された大きなポスターを見て、春花はほうっと感嘆のため息をついた。ピアノの鍵盤に向かう真剣な眼差し。すっと整った鼻筋に、薄く弧を描く唇。そして長く綺麗な指。――ピアニスト桐谷静――その名前を見るだけでドキッとする。こうして有名になるにつれて、いよいよ彼は手の届かない人になったんだと実感する。同級生なのは本当は嘘なんじゃないかとさえ思えてしまう。音楽大学在学中にコンクールで賞を取りどんどんと有名になっていった静。昨今の芸能ニュースでは、フルート奏者と熱愛報道まで出ているくらいに世間を賑わせているもはや有名人だ。その活躍を耳にするたび春花は誇らしい気持ちでいっぱいになった。と同時に、自分の人生とは雲泥の差であることへの、憧れと嫉妬心が少なからずもわく。高校生のときは放課後毎日一緒に過ごしたのに、と。その思い出すら幻だったのではないかと思うほど、今の静は輝いていて別世界の住人に見えた。専門学校で保育士の資格を取った春花だったが、結局ピアニストになることが諦めきれず楽器店に就職し、そこでピアノの講師も兼任することになった。ピアニストとは程遠い仕事だが、充実はしている。結局本当にピアニストになりたかったのかどうか、今の春花にはわからない。ただひとつ言えることは、静に少しでも近づきたかったということだ。
店舗の運営とピアノ講師はシフト制によって勤務時間が決められている。午前中から昼過ぎまで楽器店の店員として働いた春花は、午後は併設されているピアノ教室の講師を勤める。ピアノのレッスンは主に夕方からが主で、幼児から年配まで年齢層は様々だ。「はるかせんせい、こんにちは」「こんにちは、ももちゃん。お家で練習してきたかな?」「もも、できるようになったよ。みててね」保育園児のももは小さな手を鍵盤に乗せ、ぎこちない指でドレミと音を出す。「うん、上手になってる」「やったぁー!」ももの微笑ましい姿は春花を初心に返す。今ではスラスラと弾けるようになったピアノも、かつては春花だってももと同じスタートラインだったのだ。「ピアノ弾きたいなぁ」「せんせい、なあに?」「ううん、ももちゃん、今日も頑張ってピアノ弾こうね」「うん!」春花はその後5つのレッスンこなし、ようやく本日の勤務を終えたのだった。「は~疲れたぁ」思わず声が出たことに春花は自分自身苦笑いした。今日は午前中から勤務があり、レッスンもたくさん入っていたハードな一日だった。早く帰ってゆっくりお風呂にでも浸かりたい。そんなことを考えながら帰宅していると、突然携帯電話が鳴った。表示名を見て、春花は無意識に眉をひそめる。そしてため息が漏れた。
「……もしもし?」『春花、仕事終わった?』「うん、今帰るところ」『お疲れ様。今日ちょっと遅くない?』「シフト勤務だからこんなものよ」『いや、絶対遅いよ。こんな時間まで何してたんだ?』「仕事だってば」『待ちくたびれたんだけど』「……何か用事?」『彼氏が会いに来てやったのにその言い方はなんだ?』「……家にいるの?」『そうだよ。なんか悪いか?』「……ううん、すぐ帰る」携帯電話をカバンに押し込むと、春花は殊更大きなため息をついた。去年合コンで知り合った高志は大手企業勤めで寮暮らしをしている。優しくて思い遣りのある男性で印象がよく、高志からのアプローチやまわりから持て囃されて付き合い始めた。だがよかったのは最初のうちだけだった。日を追うごとに高志からの束縛が強くなっていったのだ。――どこへ行くんだ ――帰りが遅い ――俺以外の連絡先は消せ言われるたび春花は不快な気持ちになり、精神はゴリゴリと削られていく。そうして溜まった不満を爆発させれば大喧嘩に発展し罵られ、春花は泣いてしまう。それなのに結局最後は高志が泣いて謝るというパターンがここ最近の二人の付き合いだった。――春花が好きだから ――ずっと一緒にいたい ――春花がいないと俺はダメだそう言われてすんなり受け入れるほど春花も子供ではない。春花自身、高志がモラハラなのではないかと考えたりもする。けれど泣いてすがってくる高志を簡単に蔑ろにするほど残酷にはなれないでいた。高志を突き放す勇気もなく、なんだかんだ許してしまう春花は甘いといえよう。(でも今日こそ別れを告げてやる。今日こそは……)
「……もしもし?」『春花、仕事終わった?』「うん、今帰るところ」『お疲れ様。今日ちょっと遅くない?』「シフト勤務だからこんなものよ」『いや、絶対遅いよ。こんな時間まで何してたんだ?』「仕事だってば」『待ちくたびれたんだけど』「……何か用事?」『彼氏が会いに来てやったのにその言い方はなんだ?』「……家にいるの?」『そうだよ。なんか悪いか?』「……ううん、すぐ帰る」携帯電話をカバンに押し込むと、春花は殊更大きなため息をついた。去年合コンで知り合った高志は大手企業勤めで寮暮らしをしている。優しくて思い遣りのある男性で印象がよく、高志からのアプローチやまわりから持て囃されて付き合い始めた。だがよかったのは最初のうちだけだった。日を追うごとに高志からの束縛が強くなっていったのだ。――どこへ行くんだ ――帰りが遅い ――俺以外の連絡先は消せ言われるたび春花は不快な気持ちになり、精神はゴリゴリと削られていく。そうして溜まった不満を爆発させれば大喧嘩に発展し罵られ、春花は泣いてしまう。それなのに結局最後は高志が泣いて謝るというパターンがここ最近の二人の付き合いだった。――春花が好きだから ――ずっと一緒にいたい ――春花がいないと俺はダメだそう言われてすんなり受け入れるほど春花も子供ではない。春花自身、高志がモラハラなのではないかと考えたりもする。けれど泣いてすがってくる高志を簡単に蔑ろにするほど残酷にはなれないでいた。高志を突き放す勇気もなく、なんだかんだ許してしまう春花は甘いといえよう。(でも今日こそ別れを告げてやる。今日こそは……)
店舗の運営とピアノ講師はシフト制によって勤務時間が決められている。午前中から昼過ぎまで楽器店の店員として働いた春花は、午後は併設されているピアノ教室の講師を勤める。ピアノのレッスンは主に夕方からが主で、幼児から年配まで年齢層は様々だ。「はるかせんせい、こんにちは」「こんにちは、ももちゃん。お家で練習してきたかな?」「もも、できるようになったよ。みててね」保育園児のももは小さな手を鍵盤に乗せ、ぎこちない指でドレミと音を出す。「うん、上手になってる」「やったぁー!」ももの微笑ましい姿は春花を初心に返す。今ではスラスラと弾けるようになったピアノも、かつては春花だってももと同じスタートラインだったのだ。「ピアノ弾きたいなぁ」「せんせい、なあに?」「ううん、ももちゃん、今日も頑張ってピアノ弾こうね」「うん!」春花はその後5つのレッスンこなし、ようやく本日の勤務を終えたのだった。「は~疲れたぁ」思わず声が出たことに春花は自分自身苦笑いした。今日は午前中から勤務があり、レッスンもたくさん入っていたハードな一日だった。早く帰ってゆっくりお風呂にでも浸かりたい。そんなことを考えながら帰宅していると、突然携帯電話が鳴った。表示名を見て、春花は無意識に眉をひそめる。そしてため息が漏れた。
通勤途中の電車の中吊り広告や楽器店に張り出された大きなポスターを見て、春花はほうっと感嘆のため息をついた。ピアノの鍵盤に向かう真剣な眼差し。すっと整った鼻筋に、薄く弧を描く唇。そして長く綺麗な指。――ピアニスト桐谷静――その名前を見るだけでドキッとする。こうして有名になるにつれて、いよいよ彼は手の届かない人になったんだと実感する。同級生なのは本当は嘘なんじゃないかとさえ思えてしまう。音楽大学在学中にコンクールで賞を取りどんどんと有名になっていった静。昨今の芸能ニュースでは、フルート奏者と熱愛報道まで出ているくらいに世間を賑わせているもはや有名人だ。その活躍を耳にするたび春花は誇らしい気持ちでいっぱいになった。と同時に、自分の人生とは雲泥の差であることへの、憧れと嫉妬心が少なからずもわく。高校生のときは放課後毎日一緒に過ごしたのに、と。その思い出すら幻だったのではないかと思うほど、今の静は輝いていて別世界の住人に見えた。専門学校で保育士の資格を取った春花だったが、結局ピアニストになることが諦めきれず楽器店に就職し、そこでピアノの講師も兼任することになった。ピアニストとは程遠い仕事だが、充実はしている。結局本当にピアニストになりたかったのかどうか、今の春花にはわからない。ただひとつ言えることは、静に少しでも近づきたかったということだ。
「本当は、桐谷くんと一緒に音大に行きたかった……」グスグスと泣きながら自分の気持ちを吐露すると余計に涙が溢れ出た。しゃくり上げながら泣きじゃくる春花を、静は抱きしめたい衝動に駆られた。けれど静にそんな勇気はなく、ただ隣で静かに見守ることしかできなかった。ようやく春花が落ち着くと、静はポツリと呟く。「泣いてちょっとはすっきりした?」「……うん」「俺が山名の分まで音大で頑張ってくる。ピアニストになってみせる」「……うん」「だから山名もピアノ辞めるな。山名のピアノは人を優しい気持ちにさせる。俺は山名のピアノが好きだ」静の言葉がぶわっと春花の体を駆け抜けていく。まるで告白でもされたかのように気持ちが高揚し、先程まで落ち込んでいた気持ちが嘘のように晴れていくような気がした。「桐谷くん、もう一度トロイメライ弾かせて」「ああ」二人は並んで座り直し背筋を正す。 静の呼吸音を合図に柔らかく鍵盤を叩いた。今度はお互いの手に触れることなく綺麗な旋律を生み出していく。もう春花に迷いはない。 静も決意を新たにする。トロイメライを弾きながら、二人はそれぞれの未来を夢描いた。これから先、別々の道を歩もうとも、ピアノは続けていく。それが道標となっていくのだろう。この日の出来事は春花にとって、キラキラしていて宝石のように心の中でずっと輝く忘れられない素敵な思い出となったのだった。
◇静の呼吸音を合図にポロロンと鍵盤を叩く。お互いの呼吸を合わせて流れるように指を動かす。演奏中、普段は触れない相手の手を掠めるということが今日は何度もあった。「山名、今日どうかした?」「ごめん、なんか調子悪いみたい。練習不足かも」俯いて手を握る春花に、静は怪訝な顔をする。もうすぐコンクールだというのに、こんな初歩的なミスを何度も犯す春花はどこかおかしい。「なんか、あった? 今日、元気ない」音楽室に入ってきたときから感じていた春花の違和感。気のせいかと思っていた静だったが、この様子ではやはり気のせいではないらしい。「……うん」口数少なく春花は小さく頷くと、やがて深いため息とは裏腹に、静に笑顔を見せた。「桐谷くんごめん。私、音大受験できなくなっちゃってさ」「えっ?」「両親が離婚したんだ。仕方ないよね、音大ってすごく高いんだもん。お母さんに負担かけたくないし。だから保育の専門学校を受験することにしたの。保育士ってピアノ使うじゃない? だからいいかなーって。まあなんていうか、ピアノ触れるだけ嬉しいっていうか……」捲し立てるように早口で言う春花はずっとニコニコしていてそれが逆に静の胸を苦しくする。「桐谷くんは音大頑張ってよね! さ、もう一回練習しよっ!」春花は明るく振る舞いながら鍵盤に手を置く。いつでも準備万端とばかりにその時を待つが、静は一向に始めようとしない。春花の手は静によって鍵盤から下ろされた。掴まれた手首は思いのほか力が強く、春花は驚いて静を見る。「無理すんな。本当は行きたかったんだろ、音大」「……そんなことないよ」「俺の前で強がったりするな!」「桐谷くん……」「そんな泣きそうな顔して何言ってるんだ。泣けよ。泣けばいいだろ」「……ううっ」体の奥の方から溢れてくる気持ちはどんどんと膨れ上がって、やがて春花の視界をぼかす。
自室に戻りベッドへ突っ伏す。両親が不仲でいつだって雰囲気が悪く居心地の悪い家。離婚するなら早くすればいいのにと、春花は密かにずっと思っていた。だから心の準備はできていたはずだった。父とは会話のない生活がずっと続いている。別に嫌っているわけではないが、離婚したら母について行くのだろう。引っ越すのならピアノは持っていけないかもしれない。などと大方の予想はできていたのだ。「はぁー」春花のため息は誰に聞かれることもなく、虚しく抜けていく。いくら予想していたとはいえ、受験もコンテストも控えているこの時季に生活が変わるのだ。少なからずともダメージはある。「音大、行けないんだろうな……」大学はお金がかかる。それくらい春花は理解している。自分の将来が変わってしまうことを憂いじわじわと押し寄せる感情に泣き崩れた。「……ううっ……桐谷くん」何より静と一緒に音大に行けないことの事実が、春花の胸をぎゅうぎゅうと締めつける。春花は静とピアノを弾くことがとても幸せだ。あの時間は本当にかけがえのないもので、大切にしていきたい空間である。それはこれからもずっと、静と共にありたいと願うことでもある。「桐谷くんと離れ離れかぁ」春花の気持ちは静は知らない。伝えて壊れるくらいなら、伝えずにずっとこうして仲良くピアノを弾いていたい。だから同じ音大を目指していたというのに……。
春花も音大を志望し、二人のピアノは益々熱が入った。受験は一月。連弾のコンクールも一月というハードスケジュールだったが、お互い何も苦ではなかった。むしろ二人でいられる時間が幸せすぎて、勉強もピアノもどんどん向上していく。だが、ある日春花が家に帰ると、いつもと様子が違っていて不思議に思う。「……ただいま」キッチンにいるであろう母に向かって声をかけると、「おかえり」と明るい声が返ってきて春花はドキッとする。春花の両親はずいぶん前から不仲で、家はいつも雰囲気が悪かった。居心地の悪さから春花は家に帰るとすぐに自室へこもって過ごしていたのだが、なぜか今日は母の機嫌がいい。「春花、話があるのよ」「あ、うん。カバン置いてくる」ドキドキと脈打つ鼓動はやがて胸騒ぎへと変わっていく。なんとなく覚悟を持って母の元に行くと、食卓にはケーキが用意されており、母の口からは離婚したことを告げられた。「春花にはずっと辛い想いをさせてごめんね」そういう母の顔はずいぶんと晴れ晴れしており、春花の知らないところでいろいろな苦労があったのだろうと推測された。「それでね、この家も売ることになったのよ。近くのアパートを借りるから、学校に通いにくくなることはないと思うけど」「うん、わかった」「春花、ピアノなんだけど……」「わかってる。持っていけないんだよね?」「ごめんね」「大丈夫。ピアノは学校で弾けばいいし、貯金してあるお年玉でキーボードでも買うよ。それよりよかったね、離婚できて」「春花、ありがとう」「で、お祝いのケーキってこと?」「……お祝いとお詫びを兼ねて。春花には悲しい想いをさせてしまうわ」「別に悲しくなんてないよ。お父さんとはもうずいぶんしゃべってないし、お母さんが笑っててくれる方が私は幸せ」「春花……」母はグスグスと鼻をすすり、春花は何でもないようにケーキを平らげた。
「桐谷くんは進路どうするの? やっぱり音大目指してる?」「うん。俺の夢はピアニストだから」「ピアニストかぁ。なんかすっごくしっくりくるね」「山名は?」「私はまだ迷ってる」「山名も目指せよ、ピアニスト。一緒に音大行こうぜ」「桐谷くんとはレベルが違うってば」「なんで? 俺、山名のピアノすごく好きだけど」なんでもなくさらっと放たれた静の言葉は、春花の心に深く刻まれる。静は子供の頃からピアノ一筋で、通っているピアノ教室で開催されるコンテストでたびたび賞を取っているほど、まわりからも将来を期待されている逸材だ。一方の春花も子供の頃からピアノが大好きでずっとピアノを習っているが、有名なピアノ教室ではないためコンテストはもちろんのこと発表会すらない、本当に趣味程度のピアノの腕前だった。「俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ」「すごい! いつか桐谷くんのコンサートに行きたい」「まずは連弾で優勝だな」「うん!」毎日音楽室でピアノを弾き、休憩中はたわいもないことをおしゃべりする。春花はこの時間が何よりも癒されるものだった。いつも帰る時間になると寂しくなってしまう。ずっと静とピアノを弾けたらどんなに幸せだろうか。将来を想像しては頬を緩ませた。
放課後の音楽室は傾き始めた太陽の日差しが燦々と降り注いで、室内をセピア色に染めていた。春花《はるか》は耳を研ぎ澄ます。隣に座る静《せい》と目配せをし呼吸を合わせ、指先に神経を集中させた。静のすうっという呼吸音を合図に指を動かす。ポロンポロンと柔らかいピアノの音色が教室に響き渡り、心地よい空間が生み出された。山名春花《やまなはるか》と桐谷静《きりたにせい》は高校三年生。一年のときから音楽部に所属している。二人ともピアノが得意で、合唱コンクールのときはどちらがピアノを担当するかでよく議論になった。「桐谷くんのピアノはすごいから」たいていは春花がそう結論付けて身を引いていたのだが、いつからか静も、「今回は山名の方が上手いと思う」と春花のピアノの腕を認めるようになっていた。もともと合唱に力を入れていた音楽部だったが、二人のピアノの実力を認めていた顧問は音楽部とは別に、連弾でコンクールに出場してみないかと提案した。ピアノコンクールは予選、本選、コンサートと一年がかりのイベントだ。当然予選を突破しなければ次へ進めないのだが、春花と静は毎日放課後に音楽室で練習に励んだ。高校三年生ともなると基本的に部活は夏の大会を最後に引退となる。そして受験モードへ移行していくわけなのだが、順調に予選を突破した二人は夏を過ぎても音楽室に入り浸っていた。